ナウシカの父の憧憬

世の中の疑問に思ったことを綴ったブログです。

夫婦別姓禁止は国家による思想統制だ

夫婦別姓禁止が間違っている理由>

サイボウズの青野社長らが、夫婦別姓の実現を求めて訴訟を起こしたことが話題になっている。

夫婦別姓禁止を合憲とする最高裁判決は未だ記憶に新しいが、今回青野氏の訴訟は戸籍法の不備を指摘したものだ。詳細は記載しないが「民法夫婦別姓の規定は変えられなくても、戸籍法上別姓の呼称は認められるべきで現状の法律には不備がある」という主張で、訴訟理由を見ると法的合理性はかなり高く、違憲判決が出る公算も強いのではないかと個人的には感じている。

私個人は夫婦別姓にしたいとは思わないが、別姓を選択したい人の為に青野氏の主張が認められる様期待している。

ただしこの青野氏の主張は夫婦別姓違憲性認定を正面切って要求するものではなく、戸籍法上だけでも別姓が容認されれば社会的に受ける不利益解消に繋がるという実利を求めたもので、いわゆる裏口入学の様な形だ。したがって裁判の結果如何に係らず「夫婦別姓は認めない」という国の基本スタンスにはおそらく変化は無く、残念ながら根本的問題の解決にはならないだろう。

私は、国のこの様なスタンスは「思想の統制」に相当し、本来根本から正さなればならない性質のものだと思っている。

夫婦が同姓を名乗るか別姓を選択したいかは、その人の価値観によるものだ。人は誰にも迷惑を掛けない限り、どの様な価値観を持とうが許容されるのが自由主義社会の原則だ。にも関らず正当な理由なくこれを否定することは個人の価値観の否定であり、思想の統制に他ならない。つまり「夫婦別姓にしたいという価値観を持つことは間違っており、夫婦同姓とすることが正しい価値観なのであなたの価値観を改めなさい」と言っているのと同じだ。

と言うと国側は「夫婦別姓の価値観を否定している訳ではない。どの様な価値観を持つかは個人の自由だ。」と言うかも知れない。だがもし本当にそうならば、人が自身の価値観を実現しようとすることを邪魔したり、止めさせたりすることはないはずだが完全に国は邪魔をしている。

誰にも迷惑を掛けず公共の利益も侵さない様な価値観であれば、それを実現しようとすることは本来自由主義社会では誰しもが持つ権利のはずで、政府はそれを保障する立場のはずだ。

ただし夫婦別姓を許容することで公共の利益が侵される様な問題があれば話しは別だ。ではその様な問題があるだろうか。

例えば日本人同士の婚姻の場合には別姓は認められないが、外国人と結婚する場合、日本でも夫婦別姓は認められている。また多くの国では既に別姓が定着している事実から見て、行政上の支障やコスト面での問題が無いことは既に明白であろう。

また「子供の姓はどうするのか」と言われるがこれは夫婦で決めれば良いことで、余計なお世話だろう。或いは「家族の絆が弱まる」と主張する人もいる様だが、家族の絆をどうするかも個人の自由な価値観のはずで、そもそも戦後家族の絆を散々ぱら壊す施策を導入してきた国の、どの口が言うのか聞いてみたいものだ。

その他色々考えてみても、夫婦別姓により社会に容認出来ない害を及ぼす問題は私には見つけられれなかった。

先の合憲判決が出された裁判では男女差別の観点から違憲性が争われたが、民法の規定自体は男女を差別する条文は無く、これを違憲とするには無理な点があり、最高裁の判断は至極まっとうであったと思う(違憲と認定する少数意見もあったが、実はこれは論理矛盾を生じる点があり、詳細はまた別の機会に言及したい)。しかしもし「個人の自由の保障」の観点からの訴訟であったなら、違う論点・結論になったかも知れないと思ったりもする。

 

 

<国民自身が招いた思想統制

現状国民の多くは夫婦同姓を支持していると思われるが、夫婦別姓を認めても夫婦同姓を否定される訳では無いので、同姓支持者の権利は何も侵されることはないはずだ。にも係らず別姓を認めないのは、既述の通り国家に「思想の統制」を求めていることに他ならず、重大な誤りであることに気付くべきだ。

ちょっと大袈裟に言うとこれはある意味、我々国民が自らの思想の自由を守れるかとの問題だと私は思っていて、この程度のことで簡単に「国家による思想の統制の罠」に嵌り、一部個人の正当な権利を奪う様では、戦前のようにいつまた知らないうちに国家に洗脳されるか解らないのではないかと危機感を持っている。

この問題は本来裁判などで決めてもらうようなものではなく、国民自らが権利を守るために法制度として確立すべきものだ。そのためには国会での承認を目指すべきであり、思想統制を容認するような国会議員を当選させないようにする必要がある。そのためには、国会議員各人の夫婦別姓問題に対する考え方を公表させ、問題のある議員には投票しない活動を進めるしかない。

自由主義社会とは誰かが与えてくれるものではなく、国民自身の不断の努力により初めて得られるもので、我々自らがが高い意識を持たない限り自身の自由を守ることも出来ないだろう。

今の農業は滅び去る運命だ

日本の農家の高齢化が進み後継者不足や、多大な耕作放棄地が発生するなど農業の危機が叫ばれている。

一部輸出の強化を試行する動きもあるが、国家としての戦略性は乏しく今のままでは抜本的な問題解決には程遠いだろう。

日本の農家は規模が小さく労働生産性が低い上、ホームセンターより高い値段の資材を農協から買わされる為非常にコストが高いと言われている(最近は小泉議員の奮闘で少しは良くなっている様だが)。

本来自由化により生産規模を拡大し、安価に資材販売する業者から自由に大量に購入出来ればずっと生産性が高まるのは誰の目にも明らかなのに、何故こんなことになってしまっているのか。

 

<日本の農業はなぜ衰退したのか>

明治時代初期には零細養蚕農家により生糸は生産されていたが、富岡製糸場の創設を始まりに近代化が進み、製糸業はその後日本経済を支える一大産業に発展した。

しかしその過程の中で、養蚕農家を仕切っていた仲買人は利権を奪われることから、当初その抵抗は相当激しかったはずだ。それでもその困難にもめげず当時の政治家は養蚕業の近代化をやり遂げたのだろう。

では戦後日本の農業の歴史を当時に例えてみるとどうなるか。

明治維新期に零細養蚕農家を仕切っていた仲買人の胴元がいて、政府が近代化のため大型製糸場を創設しようとしている動きを察知。

利権を奪われると感じた胴元は「製糸場が出来ると農家の職がなくなる。工場でもすぐ首を切られる。養蚕業を守れ。」などと喧伝し養蚕農家をたき付け大規模な反対運動を煽った。

激しさを増す運動に対し、養蚕農家票を失うことを恐れた政治家は、製糸場の建設を諦め、参入障壁を設けたり補助金の交付による零細養蚕農家の保護を約束。

胴元は引き続き農家を仕切る利権を得て生産物を一手に販売する他に、農家に資金を貸し付けたり高い資材を売り付けたりして利益を独占。養蚕業者は零細なまま、高度化することも高い競争力を持つこともなく、日本を支える産業には育たなかった。

と、差し詰めこんなところが戦後農業の歴史であろうか。現在の政治家レベルでは、明治維新は間違いなく失敗したであろう(胴元が誰であるかは敢えて言わないがお分かりでしょう)。

 

<農家に後継者がいなくなるのは当然だ>

ではその結果、今の農業がどうなったか。

例えば零細農家に後継ぎと期待される長男が生まれたとしよう。

その後成長した彼は「我が家は未だ零細な農家だが、自分の力で将来農地を広げ、世界に農産物を輸出出来る様な大規模農家にしたい」との思いを抱き、後継ぎとなることを決意する。

ところが日本の農家は、零細でも補助金などにより生活していくことは出来る為、農地を手放そうとする人は少なく、本来どの産業にも備わっているはずのダイナミズムが存在しない。

農地を拡大しようとしてもなかなか適当な土地は見つけられず、資金の調達先も限られ、色々な規制もあって大規模化・組織化することも難しい。

また補助金の内容も年によってまちまちで、一貫した生産戦略が立てられない。

更には機械や資材類も高くつくものしか手に入らず、結局生産コストは非常に高くならざるを得ない。

これでは輸出を大きく増やせる様な農産物の生産など到底無理で、零細農家を細々と引き継いでいくしかなく、自分の将来に全く希望が持てない。

かくして彼は、農家の後継ぎとなることを諦めた。おそらくこんな心情になるのではないだろうか。

自分の将来に希望が持てない職業に就きたいと思う人は誰もおらず、農家に後継者がいなくなるのは当たり前だろう。

そしてその原因は、農家自身が作り出したものでもあるのではないだろうか。

 

<政府・全農の責任>

個人農家の場合、農地は子孫が相続することが前提となり、子孫に後継ぎがいなくなればいずれ廃業となるしかない。

日本の農業は個人経営が基本となっているため、一子相伝で確実に引き継がれる仕組みが無い限り、産業としての持続可能性が欠如していると言わざるを得ない。この問題解消のためには農家を集約、法人化・大規模化し、後継ぎがいなくても誰でも継承可能な、また誰もが継承したいと思うような強く魅力的な組織化を推進するしかないはずだ。

しかし実際の農政がやってきたことは全く逆としか思えず、国や全農はこの問題を一体どう考え、今まで何をやってきたのだろう。

 

<農業のたどる道>

政府・全農・農家が一体となって作り上げてきた今の閉鎖された農業の仕組みは、零細農家を生き長らえさせるが農業を滅ぼすものであったと言える。そしてそれは戦後の農業の歴史が証明している。

人は誰しも変化を好まない。自分の慣れた仕事で安定した生活を送りたいと思うものだ。しかしそんな思いとは関係無く、周りの環境は大きく変化していく。その変化に眼を瞑りただ今まで通りの仕事を守ろうとするだけなら、江戸時代の鎖国と同じだ。世界から取り残され、ある日黒船が現れた日に慌てふためくしかなくなる。

農業の自由化を行なえば、資金力や販売力のある多くの大資本の参入も予想され、全農の取引シェアは大きく低下し、競争力の低い零細農家の廃業も増えるのだろう。

しかしそれはどの産業も通ってきたやむを得ない道で、そうしなければ後継者もいなくなり、結局自ら滅び去るしかない。そして今や農業は滅びの淵に立っており、傍から見るともう手遅れのように思える。

農業が復活するためには、自らが痛みを負ってでも自由化を推進し、海外輸出も拡大していけるよう商品力や生産力を高めていくしかないだろう。彼らがそのことに気付く日は来るのだろうか。

僕は民主主義を信じない

<民主主義制度は優れた政治システムなのか>

日本は戦後民主主義国家になった。しかし民主主義制度というのはどれほど優れた政治システムなのだろう。

例えば来年には消費税率アップを控え、テレビの街頭インタビューで「生活はもう大変ですよ。今でも苦しいのにこれ以上の増税は絶対反対です。」などと答える中年の主婦の首元にはダイヤのネックレスが光り、生活苦とは無縁の様にしか見えないことがある。国の借金問題について聞かれると「そんな難しいこと言われても。政治家の人がちゃんと考えてくれないと。」などと、およそ国の将来のことなど興味無い様な返答が帰ってくる。そして選挙では、国の財政を考え増税の必要性を訴える候補者より、財源も提言せず単に増税反対を連呼するだけの候補者に投票する人もいる。

このレベルの人たちが、日本の将来に関わる重大な選択権を持つ民主主義という制度が、何故政治的に優れたシステムなのか。

この疑問は、実は私の中では以前から大きな難題なのだ。皆さんは民主主義の優位性についてどのように理解しているのだろう。

「政治システムとしての民主主義の優位性」といったテーマの討論番組は見たことが無い。討論番組と言われるものはどれも「民主主義制度は疑いようもなく最善の政治システムだ」という前提に立った上で議論が行われている。この点を論理建ててきちんと考えたことがある人がいったいどの程度いるのだろうか。

ではどうして民主主義制度が最善の政治システムだという考えが、根付いて疑われなくなったのか。それは恐らく「学校で習ったから」であろう。

未だ十分な判断能力が無い小学生の時期に学校で習ったことは、知らないうちに誰しも無条件で受け入れてしまっている。これはいわゆる学校教育による洗脳で、「戦前は軍国主義に洗脳されていた」国民が、「戦後は民主主義に洗脳された状態になった」だけに過ぎないと、私は考えている。

 

<民主主義の本質>

民主主義とは、イメージとしては軍国主義専制君主制国家とは対極にある制度の様に考えている人も少なくないだろう。

しかし民主主義の本質は、国民がどの様な国家体制を選択するかの権利を持っている制度というだけに過ぎない。つまり、仮りに国民の過半数軍国主義国家となることを支持すれば、論理的には国民の選択により民主的に軍国主義国家になるわけで、決して別物ということにはならない。

戦前の日本は一部の軍部の人間によって国民が洗脳された様なイメージを持たされているが、日本はそれまでに日清・日露戦争、第1次大戦と勝利を重ねてきた実績が有り、実際にはマスコミも含め国民の多数が戦争を肯定していたのが実態であったはずだ。また当時世界で最も民主的な国家の一つであったドイツではヒトラーが首相に選出され、民主的に軍国主義化していった。つまりどんな民主主義国家でも、軍国主義という誤った選択をしないとは言い切れず、実際に歴史的事例もあるということだ。

なので我々国民は民主主義の歴史と限界を良く認識し、愚かな選択を二度としない様に常に考えておく必要があるのだろう。

 

民主主義はフランス革命以降に始まったまだ歴史の浅い制度だが、その評価が十分に行われている様には思えない。

例えば内閣支持率40%の民主主義国家と、国民支持率80%の国王制国家とでは、どちらが国民の政治に対する信頼度・満足度が高いだろうか。現状では民主主義制度とは、「国民全体の意思が反映される分だけ、他に比べてまだましだと考えられる政治システム」という程度にすぎないと考えるべきだろう。

日本も民主主義制度以外に選択すべき政治システムがあるのかも知れない。

ではもっと理想的な政治システムとはどういうものか。その方法についてはまた時期が来たら改めて述べることとしたい。

森友の真相は解明済みだ

佐川証言を分析すれば森友の真相はほぼ解明済み。だが最も重要な問題はいつも置き去りだ。

 

先日の佐川元国税庁長官の国会証人喚問の結果、マスコミや政治評論家は「結局真相は何か良く分からない」などとコメントしているが、実は佐川氏は重要なことを極めて明確に答弁していた。

証言内容を分析すると結論は明白で、私は森友問題の真相はほぼ解明出来たと考えている。

ただし毎度のことだが本当の問題は今回も置き去りになるだろう。以下その要点を述べてみたい。

 

【佐川氏の証言から張本人がはっきりした】

まず彼の証言で重要な点は以下の4点だ。

①数十回の証言拒否を行った。

安倍総理昭恵夫人、その他政治家の関与はなかった。

③全て官庁内のみで行われたことだった。

④自身の書き換えの関与は証言を拒否した。

 

まず①の点から、佐川氏は後で偽証罪に問われることの無い様、極めて慎重な態度で証言していたことが良く解る。

ところがその様な慎重な答弁を行っている中で、②や③は明確に断言している。これは何を意味しているか言うと、「②や③を断言しても後で偽証罪に問われることは無い」と彼が確信していたからとした考えられない。

例えばもし財務省内で書き換え問題が調査途中であったならば、②や③を断言することはまず有り得ない。調査結果によっては後日偽証罪に問われる危険性が残るからだ。つまり全ての真相が解明出来て初めて②や③の証言が可能になるはずだ。

ということは佐川氏は既に全ての真相を完全に把握しており、だからこそ②や③を断言出来たということになる。

では彼はどうやって事の真相を完全に把握し得たのであろうか。

例えばもし彼の全く感知しないところで文書の書き換えが行われていて、財務省内で内々に調査が行われた結果、②や③の点が記載された詳細な報告が彼のところに上がってきたとしよう。その報告書を見た結果で彼が証言する場合、②や③の様な証言になるかと言えば、そうはならない。

というのは、その報告内容が100%正しいとは限らないからだ。例えば官邸からの指示で書き換えを実行した官僚がいたとして、官邸からこの官僚に対し「官邸から指示があったことは省内でも絶対口外するな」といった口止めが行われていることも考えられる。このことが後々明らかになった場合、佐川氏の証言は偽証罪に問われる可能性が極めて高くなる。

なのでこの場合の彼の証言は、「私のところに上がってきている報告では、政治家の関与は無く、全て省内で実行されたものであったと承知している」という内容になるはずだ。

国税庁長官にまで昇りつめ、極めて慎重な証言をしていた人物が、そんなことにも想定せず不用意に断言的な発言をすることはまず考えられない。

では彼は何故②や③を断言出来たのか。

それは単刀直入に言って、佐川氏自身が書き換えを指示・実行した当事者だからに他ならない。当事者であれば「政治家の関与が無く、全て省内で行われた」ことは自身が最も知っているはずで、また当事者以外では断言することはまず不可能だからだ。

佐川氏は、自身が書き換えに関与したかの質問に対し、証言を拒否している。これは自分のことを聞かれているわけだから自身の関与が無ければ、政治家の関与は無かったと答えたのと同じように「自身も関与していなかった」と答えればそれで良いはずだ。にも拘らずそれを証言出来なかったということは、彼自身が関与していたことの何よりの証拠だ。

つまり結論は、安倍首相や昭恵夫人その他政治家は全く関係なく、佐川氏を首謀者(あるいは複数名が共謀)として財務省内だけで書類の書き換えが行われた、ということだ。

蛇足だが、野党は加計学園問題では柳瀬元首相秘書官の参考人招致を要求しているがこれも大した意味はない。柳瀬氏は愛媛県職員等と面会し「これは首相案件だ」と発言した疑いが掛けられているが、仮にそういう発言があったとしても特に問題はないと考えられる。「首相案件」というのは首相がイニシアチブを取って進めた施策の従来からの通称で、安倍首相は当時文科省の岩盤規制を突き崩そうと新規獣医学部の開設を目指していた。それだけの意味で彼が「首相案件」と発言したことは十分有り得ることで、そのこと自体は何の問題も無い。そもそも加計学園を担いできたのは官邸サイドではなく愛媛県などの自治体サイドであり、彼が何故発言を否定しようとするのか理解し難い。

官僚は都合の悪そうなことは、野党からの理不尽な追求を恐れてか何でも隠そうとする習性があるようだが、どうせなら是非全て正直に話して欲しいものだ。

 

昭恵夫人の何が悪いのか】

以上の点からこれは官僚組織の体質の問題であり、本来政治問題などでは無いと考えるべきであろう。さらに昭恵夫人に関しては、本件に関してはむしろ被害者のように思える。

この件に関して、昭恵夫人が籠池氏に「(払い下げの対象の土地は)良い土地ですので進めてください」と発言したとされ、それが事実かどうかを野党やマスコミは問題にしていた。しかし夫人がその様な発言をしていようがいまいが、道義的責任を含めて夫人には全く責任は無い。

何故なら籠池氏は払い下げに関して何の権限も無い一般民間人であり、「進めてください」と言ったとしても、それはせいぜい「手続きを進めてください」という当たり前のことを言った程度の意味でしか有り得ない。当時二人は理事長と名誉校長の関係であったことを考えると、私はこの様な会話があっても不思議は無いと推測するが、あったとしても全く問題無い普通の会話の類いである。

籠池氏が近畿財務局に訪れ、昭恵夫人との写真を見せて「昭恵夫人も進めてくださいと言っている」と言っても、財務局職員は「それがどうした?」と言えば良いことだ(またそういう態度であることが公務員には当然に義務付けられている)。

にも拘らず官僚が勝手に忖度し不公正な払い下げが行われ、その責任を昭恵夫人が負わされるとすれば、夫人にしてみればたまったものではない。

昭恵夫人は、自身の名前と写真と発言を勝手に利用され、勝手に忖度されただけの被害者に過ぎない。

もしこれで何らか責任を問われることがあるとすれば、彼女の立場にしてみれば、自分のやったことがいつ、誰に、どの様な形で利用され、その責任を問われるか分からないことになる。こうなるともう昭恵夫人は、他の人間と話しをすることも、一歩も外出することさえ出来なくなるであろう。昭恵夫人は身分としては一般人であり、これはもはや人権に関わる問題でしかない。

この様なことを政治利用しようとする野党や、それに乗っかる様な報道をするマスコミや政治評論家の態度には極めて問題を感じる。

 

【結局問題はいつも置き去りのままだ】

では書き換えが行われた理由、動機は何だったのか。

結局財務省内だけで行われていた訳であろうから、誰もが思っている通り官僚による忖度が働いたということでしかないだろう。動機は安倍首相や昭恵夫人に対する点数稼ぎのためで、恐らく払下げ地の不当な値引きも行われたのであろう。

官僚達が勝手にやったことで昭恵夫人に迷惑が掛かるとすれば、安倍首相の不興を買うことは間違いなく、組織のトップであった佐川氏にしてみれば、それだけは何としても避けたいとの意識が働いたであろうことは想像に難くない。

安倍首相にしてみれば知らないうちに勝手に忖度をされただけの、こちらもむしろ気の毒な立場であり、まず責任を問われるべきは、政治家の評価を受けるためなら不公正な払下げや文書改ざんも平気で行う官僚の遵法意識の低さだ。

そして首相・政府の責任はこの様な問題を改めることだが、官僚の体質改善は恐らく無理だろう。

森友問題や福田元事務次官のセクハラ問題、自衛隊の日記紛失問題などを見るに、官僚組織には詳細な内部管理規定や危機対応マニュアル、コンプライアンスマニュアルといった、一般企業であれば既に普通に備えている制度が全く整備されていない印象を受ける。

例えば事務次官は「事務次官にセクハラされたら、どこに訴え出れば良いか」などといった自身にとって都合の悪いことを、自ら制度化しようとはしないのであろう。しかし今やこの様な問題が発生した場合、一定の規則や基準がなければ的確な対処も外部への説明も出来ず、組織が致命傷を受けることになるのは一般常識だ。今回の一連の問題の結果を見てもそれは明白だろう。

しかし官僚は自らを縛る様な制度は導入しようとせず、政府与党は官僚の言いなりで、野党はスキャンダルを政治問題化しようとするだけで本質的問題解決には興味は無く、いつまで経っても進歩が見られない。そしてまたきっと同じことが繰り返されるだけなのだろう。

 

【この問題に対し今後望みたいこと】

以上森友問題の真相については全て推論でしかなく、私は政治の素人なので全く間違った見立てをしている可能性もあるが、ロジカルに思考していくと、これ以外の結論になる可能性は極めて少ないのではないかと考えている。

あと残る疑問は佐川氏の単独犯か複数犯かということくらいだが、これは検察の捜査によるべきもので、これ以上国会で無駄な時間を使うべきものではないと思う。

また最後に一点付け加えておきたいが、プロフェッショナルであるマスコミや政治評論家で、この問題に対してなるほどと思うようなロジカルな分析や、問題の本質を指摘している人を殆ど見ない。

国民の知る権利を保証し、正しい世論を形成する為にはマスコミのレベルアップは極めて重要なことをもっと良く認識して欲しいし、野党は大して意味のないことを殊更強調し政治的に利用しようとしたり、国会で無駄な時間と税金を費やすことは慎んで欲しいと思うのだ。